死後の魂と占いについて

日本人は死者の魂に親近感をもっている

今回も脳機能学者苫米地英人氏の著書『スピリチュアリズム』にある、
スピリチュアリズム批判内容の7項目のうち、
6項目めと7項目めについて解説し、反論していきます。

6項目めは、以下の内容となります。

(6)霊能者、江原啓之氏のいう「守護霊」は、複数の教義・概念の混ぜ合わせである。

そしてこれも彼らがよく口にする「守護霊」ですが、それは、元々は
キリスト教的カルトにあるゴーストの概念を、
日本古来から存在する鬼神の概念と結びつけたものです。

キリスト教的ゴーストとは、人が亡くなると生きている人間と死者との中間のような状態で墓の中にいて、魂はいろんなところをさ迷っている。

何千年後かはわからないが、最後の審判が到来したら、
悪いことをしていなければ全員が墓から起き上がって天国にいけるという
考え方で、キリスト教が土葬なのはこのためです。

鬼神とは、そもそも人間であったこともない、最初から霊的な存在です。
日本の伝説では役小角(えんのおづの)や、安倍晴明が従えていたもので、
道教でいうところの式神です。

はたしてそうでしょうか?

日本にはもともと神道という宗教――というか、
生活と一体化したものの見方、考え方、習慣が生活に根付いていました。
その歴史は、文化人類学者たちによると
弥生時代には既にあったとのことです。

山や森に囲まれた中で暮らしてきた日本人はそうした自然の物や現象に畏敬の念を抱き、
それぞれを「神」として信仰する、多神教(すなわちアニミズム)が
基本にありました。
特に山そのものを御神体とする山岳信仰が代表的です。

時代が下って6世紀頃に仏教が伝わってきた後も、もともとのインド仏教において死後行くとされる浄土が「西方(さいほう)十万億土」、
つまり途方もなく遠い観念的な世界なのに対し、日本ではなぜか
「浄土は山のなか」というごく身近で実在的な認識に変化しています。

また日本人は亡くなった人や祖先を「仏さま」と呼び、敬いますが、
本来仏教にはこのような考え方はなく、
仏さまといえば開祖である釈尊その人を指します
(これも『3日でわかる宗教』に記載されています)。

日本人は祖先の霊魂を神格化し、この神となった祖先神を祭れば、
農作業を見守ってくれると信じた。
祖神は正月になると年神、正月様、田ノ神などの名で
各家に来臨するといいます。
そして秋の収穫が終わると山に帰り山ノ神に戻ります。

それゆえ平生は子孫の生業を見守り、一年に二度、
初春と初秋に子孫の家に来臨して
祭りを受けたのです。

祖先の来訪は仏教の盆の行事と結びつきましたが、これは元来仏教にはなく
日本人に根強くあった意識によるもの、とのことです。
(「大法輪」平成21年4月号)

日常生活でも
「亡くなったお母さんが草葉の陰から見ていますよ」
といった表現がありますし、
家族が亡くなると遺影に向かって手を合わせながら
「私を守ってください」と主人公がつぶやくシーンなどが、
当然のようにテレビドラマに出てきたりします。

また、「山賊ダイアリー」という漫画の冒頭に、さり気ない描写が出てくるのですが、これが日本人の日常的な死生観をよく表現しているので
印象的です。

このコミックは、岡山に暮らすもと会社員が独立して――つまり
自営業の個人事業主として、猟師、つまりハンターとなり、
冬山で鹿や猪、兎や鳥などを鉄砲で撃って捕らえ、
自分で食べて生きていく、という著者自身の生活を漫画化した作品です。

このプロローグで、著者の幼少時
近所に住んでいた、老人の話が出てきます。

この老人とは特に血のつながりもない関係で、
ただハンティングのことを話してもらったり、
獲物を料理したものを一緒に食べる、といった仲だったのですが、
その十数年後には著者の進路を決定するほどだったわけなので、
かなり影響力が大きかったことになります。

で、この老人が、著者が中学に入って間もない時期に
亡くなってしまいました。
著者は形見分けに、老人が仕留めたイノシシの頭蓋骨を1個、
もらい受けたそうです。

一時上京し会社員をしていた著者が退職し、猟師として食べていくと
決心して、初めて兎を仕留め、一人暮らしのアパートで唐揚げにして
食べるシーンがあります。
そこでのセリフが、以下の内容です。

さようなら東京・・・
ウサギを食べるのは子供の頃依頼です。
おじいちゃんは何でもスキヤキにしていましたからね。

そしてウサギ肉の唐揚げを美味しく味わった後、出てくるシーンが秀逸で、
アパートの窓辺の棚に、小さな布切れを敷いた上にイノシシの頭蓋骨を
こちらに向けて乗せているのですが、そこに矢印が書かれており
「仏壇代わり」と解説されています。

そして著者は床(おそらくは、畳)に正座し、合唱し、頭を垂れて
イノシシの頭蓋骨に向かって祈りを捧げているのです。
その時のセリフが、以下のものです。

「天国のおじいちゃん。
今日ぼくはウサギを獲って食べました。
ごちそうさまでした」。

頭蓋骨の置かれた同じ棚の上、すぐそばには携帯電話が充電器に差して
置かれ、脇の壁には水着姿の女性のポスターも飾られており・・・
といった、ごくごく普通の、若者の一人住まいの部屋の描写なのです。

ごく平均的な生活と意識の持ち主と思われる著者の作品に、
こうしたシーンがさらりと出てきます。

このように、死者――特に近しかった人が、この世で生きている人の側に
戻ってくる、見守っているとか、意思疎通ができるといった感覚は、
現代の日本人にとってもごく普通のもののはずです。
ゴーストや鬼神などという、恐ろしげなものとは区別すべきでしょう。

(7)占いは、相手の心理の隙をついたカラクリの産物であり、当たるはずなどない 。

占いを非科学的で全てインチキだ、という人で自分は科学者だ、
あるいはあくまでも科学的理論にのっとって論じている、
と主張している人たちは何人もいますが、

そして確かに、世に出回っている占いのかなりの割合のものが
到底本来の占いの品質を持たない、安直な娯楽ツールに堕落しているのも
事実ですが、だからといって、
本来の正当な占いまでも全てウソというわけではありません。

それよりも、科学的・論理的思考をしているはずのこれらの「科学者」たちが、きちんとした占い理論を知らないか、見て見ぬふりをしているとしか
思えない発言がよく聞かれるので、この点が非常に残念ですね。

苫米地氏の発言でもこれからそうした内容に入っていきますが、
それ以前にまず、
「占い師を目指す人達にカウンセリングや話術を磨くことを
助言しているから、すなわち占いはインチキだ」
という短絡的な結論づけの場面から始めましょう。

占い師の学校ではカウンセリングを学びます。
カウンセリングの授業があるということは、占い師の学校が
「占いは当たらない」と認めているということです。
占いが当たれば、カウンセリングは要らないはずです。

確かに、純粋に論理的に考えれば「当たるのなら、カウンセリングは不要」となるかもしれませんが、実際には占いに基づく情報も、
人と人――すなわち占い師とクライアントの間で伝達されるのであり、
占い師のコミュニケーション能力が悪いと、まともに伝わりません。

これは私もかつて趣味で占いを学びに、その手の学校に
通ったことがある体験からいうのですが、
そういう教室には、普段自分が勤務する職場にいる人たちとは、
大幅に異なるタイプの人が多く集まっていました。

もちろん普通の会社員も来るのですが、一方で自営業や、
既に占い鑑定をある程度やっている人たちも多かったです。
そしてその中の少なからぬ割合の人が、組織(特に大手の、「固い」企業)勤務の社員には決していなさそうな、非常識でとんちんかんな
感覚の人が多く、驚くことがしばしばありました。

また、会社員の参加者も、
「社内で『不思議ちゃん』と呼ばれてるんだろうな」
と思わせるようなタイプが比較的多かったですね。

たとえば授業中、一人で何度も質問をし、しかもマニアックな内容や、
その時の授業からは外れた内容のことまで長々と聞きたがる、などです。

あるいは参加者同士で組んでの鑑定実習を周りで観察する
という授業の場合も、
クライアント役の応答や態度におかまいなしに、
ホロスコープやタロットカード等に出ている意味を一方的に伝えてしまい、相手を不快にさせていることに気づきません。

それどころか「自分は機関銃トークが流儀なんで」と得々として語るなど、
場の空気が全く読めない典型例の人もいました。

これでは接客業としていかにも不適切です。
どんな素晴らしい道具でも、使う人がこのありさまでは、
道具そのものの価値を疑われてしまいます。

もちろん占い師の性格だけでなく、占いそのものの能力も大問題となります。
占いはそもそも「当てる技術」なのです。
しかしわが国の「占い」と呼ばれるものの九割以上が残念ながら、
安直化された「占いもどき」であり、例えばテレビの朝の情報番組で
「今日のあなたの星座の運命は」などと流されるのがその典型的な形です。あと、雑誌の巻末に毎月連載されているものもしかりです。

「もどき」と考える理由や、ではどんな占いが「本物」なのか
といったことについては、第2章で述べたいと思います。

本物の占いが当て物である以上、他のどんな技術もそうであるように、
その技術の向上は日々の訓練が必須です。

「当てる」技術向上には、日々の訓練が必須だが・・・

易では、その一つの形として
「射覆(せきふ)」というものが古くからありました。

これは中を見えないようにした箱などの中に出題者が物、
あるいはお題を書いた紙などを入れ、
それを他の人たちが各自で易を立てて、
中身が何であるかを当てるというものです。

基本はワンヒント程度(例えば「嗜好品」)なので、相当に難しく、
かなり易を勉強した人たちの上級演習講座といった形となります。
易の書物には、そうした場での驚くような鋭い当てをした話などが
記録されています。

もちろんそれがどこまで真実の記録だったかを確かめる術はありません。
またそういう射覆の場を何百も記録して、
その結果に偶然以上の統計的一致があるかを調べた人はいないので、
占いのおかげで当たったのかどうかは証明されていません。

一方、より実用的な「当て技術」練習法として、
「失せ物占い」というのもあります。
これはクライアント(自分でも良いのですが)から、例えは
「昨日紛失した○○は見つかるか?見つかるとしたら、いつ見つかるか、
そしてどこにあるか?」
と問いに基づいて易を立て、結果を見るものです。

これで鑑定結果どおりの日時や場所から見つかれば
「当たった」ことになります――
特に、普通には思いもよらない場所や状況で占い通りに見つかった場合の
驚きと感動は、大きなものです。
ただしこれも、統計的な証明は難しいでしょう。

どんな専門家でも「本物」「一流」はごく一部だけ

それでも本物の、優秀な占い師はやはり「当てる技術」を磨いています。

まついなつき氏の『驚くほど当たる占い完全ガイド』には、覆面でさまざまな占い師やヒーラーをクライアントとして訪れ、
同じ質問すなわちダミーの人物三人の生年月日を見せ
「この人たちの誰と結婚したら良いか?」などをして結果を聞いた、
というものがあります。

実際に何人の占い師に鑑定してもらったのかは判然としないのですが、
「まつい内偵団リポート」として本書には13件が掲載されています。
その中でわずか2-3人だが、
「この生年月日時で、その男性が現在独身なはずはないんだけど」
と見抜かれるなど、非常に鋭く当てた人たちも登場しています。

肩書きは同じ「占い師」でも、一流の技量を持つ者は
(他のどんな分野の職人とも同様)、そう多くはないのです。

この辺りについては、
『誰も教えてくれない[占い師]の始め方・儲け方』にも、
以下のように述べられています。

占い師のところに来る人は、皆悩みをかかえている。
淡々と神のお告げをするだけでなく、カウンセラーのように、
的確なアドバイスをすることも求められているのだ。

そこで占い師には、相談者の苦しみをやわらげてあげる
カウンセリングの技術も必要になる。
占い師を続けているうちにカウンセリングの重要さに気がついて、
カウンセラーの勉強を始めたという人も少なくない。(中略)

しかし誤解しないでほしいのが、
あなたはカウンセラーではないということだ。
占い師なのである。
話を聞き、励ましてあげることは必要だが、それだけでは
「親切な友だち」と何ら変わることはない。

占いは占いであり、心理学やカウンセリングとは違う。
大切なのは、占いをして、占いの結果を相手に伝えることだ。
占い師としての未熟さを、カウンセラー風の話術でごまかすのは、
プロの占い師として絶対にやってはいけないのである。

占い師は占いができなければ話にならない。
占い師としての知識や能力があってこそ、
カウンセリングの能力が生きてくるのである。

占いを「未来予知術」として正しく認識し、正しく扱う人ならば、
当然こう考えるでしょう。
占いを人に説明する場合、私はよく天気予報に喩えるのですが、
そういった詳細は第2章で述べるとして、
この「当て技術」に関して、更に二点、参考になる文章を付け加えます。

まずは先程述べた
『誰も教えてくれない[占い師]の始め方・儲け方』から。

「あなたの占い、当たりますか?」
 占い師をしていれば、必ず聞かれるのがこれである。
 占いは当たるのか、当たらないのか。
 あなたがプロの占い師なら、当たらなければ困るだろう。
これから起こる未来を予測するのが占い師の仕事なのだから。

霊感だけを頼りに占う場合、当たる・当たらないは
あなたが「本物かどうか」で決まる。

しかし四柱推命や西洋占星術のように生年月日、時刻といった
あらかじめ確定した情報をもとに占う占術の場合、
霊感占いとは対照的に、数字の「読み方」は決まっている。
だから読み方を正しく理解しているなら、誰が占っても導き出される答えは大筋では同じになるはずだ。

「占いが当たらない」とか「占い師によってまったく言うことが違う」
のであれば、占い師の読み方、解釈が間違っていることになる。
たとえ正しく読めたとしても、日本語力が足りないために、
結果を相手に伝える際にニュアンスが変わってしまうこともある。

もちろん、「正しく読む」のは生易しいことではない。
知識を詰め込み、実践経験を積んだとしても、
やはり多少の誤差は出てきてしまう。

そこで精度を少しでも上げるために、占い師の多くは手相と占星術など
いくつかの占いを組み合わせるなどして努力しているのだ。

もしこの最後の一文を聞いて
「何だ、やっぱり占いは不十分だから、いろんな占いを切り貼りしてもっともらしくクライアントに告げるのか」
と思う人がいたら、それは早合点です。

わが国の数少ない優秀な占い師の一人である鎗田宗准氏
(この方は自宅に道場を作り、合気道も教えておられます)は、
そのホームページ「宗准・占術の小部屋」の日記(平成18年2月25日)
の中で、「門外漢が知りたがる『最強』」と題して
次のように述べています。

先日ある席で、わたしが「占術」をやっていると分かると、
こんな質問をされた。
「どの占いが一番当たるんですか?」

不思議な事だが、ふつうの人はこういう感覚をもっているようだ。
自分は最初から技術畑で育ってきたから、
こういう考えは頭の中にはない。 
だから新鮮ではあるが、やはりビックリする。

その方は医療関係者であったから、こう質問をかえした。
「どの診療科が一番病気が治るんですか。
外科と内科とどっちが良く病気が治るんですか?」

「あ、愚問でした」

占術を使い分ける意味と必要性とは

この発言の要点は二つです。
一つ目は、専門技術であればあるほど、
より得意な分野と苦手な分野があるということ。
占いでいえば、相談される内容で、
その方面により適した占術を用いるのは当然でしょう。

例えば「この転職話には、乗った方が良いか、見送るべきか?」なら
易やタロットなどの「卜(ボク)術」、

「自分は(あるいは、Aさんは)、どんな一生を送る青写真になっているか?Aさんの性格は?
私との相性は?」
ならば西洋占星術や四柱推命などの「命術」、

「いつ引っ越したら、あるいは家のどこの部屋を寝室にしたら
開運しやすいか?」ならば
九星気学や風水といった「方位術」が出番となります。

二つ目は、技術を実施するのが人である以上、
占い師の技量によっても雲泥の差が出る点です。

同じ「タロット占い師」でも、先月講座を受け終わったばかりの初心者と、
その道30年で知識と経験を積んできた者では、
出たカードの象徴的意味を取り出し
それをクライアントに伝える能力は比較にならないのは明らかです。

ところで苫米地氏は上智大で、カテキズム
(すなわち、キリスト教学のディベート)を3年間勉強していたそうです。

カテキズムをやることで、どこの誰に何を言われても、全ての論理に対してカトリックの方が優れているという論理を構築できます。
今、私がカトリックを守れと言われたら、世界中の誰と戦っても
「カトリックの方が優れている」と言って勝つぐらいの自信があります。

この本の全編に押し出されている主張が、非常に断定的で自信満々なのも、
こうした感覚から来ているのでしょう。
けれども明確な根拠が伴なわないものまでそのように主張するとき、
その「断定力」は「決め付け」そして「詭弁」となってしまいます。

それは例えば、「将門の首塚の祟り」など、世間に流布してしまった考えに日本人は洗脳されてしまっている、といった内容を述べた後の
次の文章にも感じられます。

しかし、「ではもう、祟りには我々日本に生まれた人間は勝てないのか、
お参りし続けるしかないのか」と落ち込まないでください。
私の本を読んできちんと実践して自己脱洗脳すれば大丈夫です。
将門の首塚など、どうということはありません。

このような論調を読んで、
「あなたに悪い霊がついている。でもこの壷を買えば大丈夫です」
という、霊感商法の語り口とそっくりだと思うのは、私だけでしょうか。
これでは「脱洗脳」ではなく、苫米地氏がよって立つという
「機能脳科学」教への「逆洗脳」ではないでしょうか?

スピリチュアリズムなりの理論やスピリチュアリストらの発言を
誤解あるいは曲解の上で猛反論するありさまは、
よく法廷ドラマなどで検事あるいは弁護士が、論点をずらして
自説の正しさを証明しようと論争する様子とそっくりです。

もちろん苫米地氏はそれで儲けようとか騙そうとしているのではなく、
安易に心を流されてしまう人々を
啓発しようとしてこの本を発信しているのでしょうが、
これまで述べて来たように、事実誤認も含めて
いくつも納得できかねる内容があるため、とてもうなずけないのです。

本書の最後に、このような記述があります。

科学とスピリチュアルを分かつものは何でしょうか。
科学が未完であるということと、科学者が科学的姿勢を崩すということは、
まったく意味が違います。

スピリチュアルとは「間違っていても信じたい」と思うことです。
それに対して科学とは、徹底的な吟味をし、
自分で打ち立てた考えを自ら批判し懐疑するものだということです。

すなわち、
「自分の考えはひょっとして間違っているのではないか?」
と疑う。
つまり、「自分は絶対に正しい」とか「これで安心」といった
思考停止をしないということなのです。

この最後の二文は、全くその通りだと思います。
なのでそれを、ぜひ苫米地氏 自身も実践して欲しいものです。

次回からは、精神科医としてサブカルチャーなどをテーマに多くの発言を
してこられた、香山リカ氏の著書を題材にしていきます。

<参考図書>
『山賊ダイアリー』https://amzn.to/2FJGztX 
『3日でわかる宗教』https://amzn.to/2YakTxB 
『誰も教えてくれない[占い師]の始め方・儲け方』https://amzn.to/2E312tj 

<参照サイト>
「宗准・占術の小部屋」 http://www.aa.alpha-net.ne.jp/sojun/  

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ホリスティック(※)精神科医として、できるだけ薬を使わずメンタル改善する方法を様々に模索し、相談者にご提供してきました。このブログではその中でも特にアート(特に絵画療法)のエッセンスを通じてあなたが自己ヒーリングできるように工夫した情報を発信していきます。 ーーーーー ※ホリスティック:「統合的、総合的な」という意味。ここでは薬物療法オンリーの従来型精神医学の限界を突破するために深層心理学、催眠療法(ヒプノセラピー)その他のスピリチュアル、アロマセラピー、そして精神症状を改善するエビデンスのある分子整合(オーソモレキュラー)栄養療法を通じてメンタル不調を改善することを指します。