スピリチュアルに頼っていては幸せになれない?

スピリチュアルとは「思考停止」で、
理性に反することなのか

前回に引き続き今回は、脳科学者苫米地英人氏の著書で述べられている、スピリチュアル批判の3つ目以降の項目について解説します。

苫米地氏の著書『スピリチュアリズム』では、主に以下の3つの理由で
スピリチュアルを批判しています。

前回述べた2つを一言で再度まとめると

(1)スピリチュアリズム最大の教えである輪廻転生思想が
差別や大量虐殺につながる。

(2)スピリチュアリズムにおいては「来世利益」ばかり重んじ
現在の人生を軽視するから、
現在の自分の状況を変えようと努力しなくなったり、
「生まれ変われば良いから」と自殺する人まで出る。

でした。

これらに対し、前回の動画では、輪廻転生思想と差別や虐殺は別物であり、
むしろ「あの世」や「死後の生」があることを知った人の方が
その後かえってこの世での人生を貴重に感じ、以前よりも
一生懸命生きるようになる人が圧倒的に多い、ということを、
複数の研究者の発表結果からご説明しました。

では3つ目の批判理由について、見ていきましょう。

著書から引用します。

(3)スピリチュアリズム=カルトであり、
カルトに頼り、思考停止してしまっては、
本当の安らぎ(幸せ)を得られない。

私たちは、こういったカルト教義に絡めとられることなく、生の問題、
死の問題に真正面から対峙し、思考し、そして日々を
あるがままに生きることで、本来、幸せな存在なのです。

ただ、本当の安らぎは理性の限界まで考え抜いたうえで
初めて訪れるものであり、思考停止による安らぎは、
本物の死が訪れるときには一瞬で砕け散るでしょう。

更に釈迦の主張が正しいとすれば、理性の限界まで考え抜いたときには、
それを超越する空を体感することだってありうるのです。

それがどんな教義であろうと、どんなメッセージであろうと、それを聞いて幸せを感じるとすれば、それは皆さんの脳と心がその幸せを作っているのです。

しかし、そんなメッセージがなくても脳と心で幸せは作れます。
それが空を体感するということです。

これは、非常にわかりにくい説明ですよね。

苫米地氏としては
「その詳細を知りたければ、別の自分の著書を読むように」
ということなのでしょうが、何冊か読んでも、氏のいう
「空の体感」だって主観体験であり、
従って絶対に切り捨てるべきだと氏が主張している「自己暗示」
の一つに過ぎないのでは、と感じます。
まあ、苫米地氏は、「空の体感」とは「臨場感の高い情報空間」だ、
と述べ、主観体験とは別物だと主張していますが。

後でも述べますが、ここ数十年でスピリチュアルな現象や
「引き寄せの法則」なども、それが効果を発揮する論理的根拠として
量子力学が大いに関わっている可能性が高いことが、
ここ数十年の研究や医療機器の発達でわかってきているのですが、

その量子力学の観点からしても、そもそも主観体験を
これほどまでに軽蔑し、忌み嫌うことの方が問題だと思います。

なぜなら量子力学においては、当人の主観が、周りの環境に作用して
現実的に変化をもたらすことがわかっているからです。

また氏は「臨死体験なんて幻覚に過ぎない」と断定しますが、
現代になり「脳科学的な事象面がわかったからといって、
イコール「心理的に無意味」ということにはなりません。

一例を挙げると、覚醒している人の大脳の右頭頂葉に電気刺激を与えると
その人は直ちに、自分を上から見下ろしている感じ、
すなわち体外離脱体験を生じる、という実験結果があるのですが、
だからといって
体外離脱体験の全てがそうした脳への電気刺激反応のみで
説明できるものではありません。

実際、脳科学的には「大脳機能は100%死んでいる」と判定された
脳外科医が、奇跡的に生き返った後、
自分の臨死体験を詳しく記録した著書を出版していますが、

本人は脳外科医なので、自分のカルテや画像データを後で詳しく調べても、
どう診ても死んでいると判断せざるを得ない状態だった、
なのにあれほどメッセージ性の強い、生き生きした体験をし、
この世に戻ってきてからの人生の生き方がガラリと替わった、
と述べています。

この脳外科医の著書『プルーフ・オブ・ヘブン(天国の証明)』へのリンクも
動画下の概要欄に貼っておきますね。

むしろ、以下のことを考えてみれば、「死後の生は存在する」と
仮定しておいた方が、その日以降の人生に良い影響を与える、
すなわち実用的メリットがあるという飯田史彦氏の主張の方が、
かなり納得できるのではないでしょうか。

飯田氏は福島大学経済学部経営学科教授として教鞭をとる一方で
「生まれ変わりがあると仮定した場合、より肯定的な人生観を得られやすい」という立場に基づき、一般向けの「生きがいシリーズ」、すなわち
『生きがいの創造』『生きがいのマネージメント』などを著し、ベストセラーになった人です。

二〇〇五年末に脳出血にて自ら臨死体験をした後、
二〇〇九年に教授職を退職し
(これは、従来の多忙すぎる生活に戻るだけの体力が
なかなか回復しなかったようです)、現在は
「飯田史彦スピリチュアル・ケア研究所“光の学校”」を創立し、
ゆっくりと時間をかけたカウンセリングを行っておられます。
以下は代表作 『生きがいの創造』 からの引用です。

1)「死後の生命は存在しないこと」は永遠に実証できない

これは「死後の生命は存在すること」も実証できない、
ということと同じで、
そもそも証明をつけて解決できるような議題ではない、ということです。

2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知るが、
 死後に意識がない場合、肯定論者は自分の誤りを知ることもない

肯定論者の場合、自分が死んだあとに意識があれば、
「やはり思っていたとおりだ」と大いに満足することになりますし、
万が一、意識などなかったとしても、意識自体がないのですから
「しまった、やはり死後には何もなかった」
と知ってがっかりすることも絶対にありません。

しかも、かりに死後には何も残らなかったとしても、本人は
最後まで死後の生命を信じて、大きな希望を抱きながら
夢いっぱいでこの世を去ることができるのです。

一方、否定論者の場合には、自体がどう進展しようとも、
どうしてもかんばしくない結果となってしまいます。
なぜなら、自分の主張の正しさが証明されたとしても、その時には
自分の意識もないのですから、「思ったとおり、意識はなかった」と、
死後に自分の勝利を味わうことは決してできないのです。

しかし、万が一、死後にも意識があった場合には、自分の誤りを知って
ショックを受けたり、唯物論的な生き方をした自分の人生に対して、
猛烈な反省をうながされることになるでしょう。(中略)

しかも、本人は、「死後には灰になってしまうだけだ」と思いながら
死んでいくため、それまでの人生に充実感がとぼしい場合には、
後悔に満ちた、寂しく、希望のない死を迎えることになることでしょう。
否定論者にとって、死はすべての終わりであり、
「喪失」以外の何物でもないためです。

このように整理すると、肯定論者は事態がどう進展しても
幸せ感をえることができるのに対し、否定論者は、いずれにしても
朗報はもたらされないことがわかります。(中略)
「死後の生」や「生まれ変わり」については、疑わしきは信じないよりも、たとえ疑わしくても信じていた方が、むしろ理性的なのです。

しばしば、「自分は理性的な人間だから、死後の生命など認めない」と
口にする人がいますが、
「自分は理性的な人間だから、死後の生命を認め、
その知識を活用しながら生きていく」
と主張する方が、よほど現実的だといえるでしょう。

もちろん飯田氏も
「人類が幸福になるためには、皆が輪廻転生を信じるべきだ」
などとは全く考えていません。
それは、以下の文章でよくわかります。

ただし、これらの問題意識(「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」ということ)を
持つことや、生きがい感を抱くことは、決して、「死後の生命」や
「生まれ変わり」を信じなければ不可能だというわけではありません。

これは、本書の立場を示すうえで、きわめて重要な点ですので、
特に強調しておきたいと思います。

「人間は死んだらそれまでだ。
だからこそ、一度しかない人生を、すべての人を愛しながら前向きに、
有意義に生きよう」
と考え、実行することのできる強い人にとっては、
本書は無用の長物であり、どうして死後のことなどに
こだわる人がいるのか、理解できないことでしょう。

しかし、
「そうは簡単に実行できない。何かのきっかけがほしい」という、
「生きがいの源泉」を見失っている人にとっては、
「死後の生命」や「生まれ変わり」の知識が大いに頼りになるのです。(中略)

すべてのことには意味があり、自分の人生は、
自分が自分に与えた問題集であること、
そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も、敵対している人も、
みな理由があって
自分の成長のために存在してくれていることを知った時、
私たちの人生観は大きくゆさぶられます。

と述べています。

二〇〇九年から二〇一〇年に話題になった本に
『死ぬときに後悔すること25』と『がん哲学外来の話』があります。
著者は前者がホスピス医、後者が病理学・腫瘍学教授であり、
がんの専門家として実際のがん患者たちと向き合い、
その心の悩みについて取り組んできた内容を示したものです。

むろんがんに限らずですが、死が間近に迫っていると実感するとき、
人は「これまでの生き方で良かったのか」「死んだらどうなるのか」
「残り少ない人生をどのように過ごせば良いのか」といった
人生上の最大のテーマに、いやおうなく直面することになります。

その際に、
「人は死んだら終わりだ、灰になるだけ。
だからそれまでは、お世話になった人々に感謝しつつ、
『その日』まで淡々と過ごすのみ」
と落ち着いて言える人は、どれほどいるでしょうか。

数あるホスピスが宗教ベース(そしてほとんどがキリスト教)で
運営されているのは、やはり
死への不安を訴える圧倒的多数の人々を支えるには何らかの教義が――
別に宗教でも他の思想でも良いのですが――ないと、
支えるスタッフも心の安定を持てないからではないかと思います
(もちろん、他者を助けるべき、という宗教上の立場が基盤になっているのはいうまでもないですが)。

また、哲学者のゲイリー・ドーア博士は、『死を超えて生きるもの』
という著書で、以下のように述べています。

真実であることを立証する十分な証拠がないかぎり、
決して何も信じるべきではないという理性原則は、
現代の科学者や哲学者のあいだで、極端なまでに広まっている。

それは、信念にかかわる事がらに対して、情におぼれない
現実的な姿勢を保っていることを示す証明書であり、
科学的思想家の誇りなのだ。

また実際、科学者や学者のような人が、あまり物事を軽信しないように
心がけるのは、明らかに良いことではある。

しかし、理性原則は、いかなる種類の信念に対しても有効なのだろうか。
何かを信じる場合、十分な証拠がそろうのを待たなければならないのだろうか。どうも、そうではないようだ。

『生きがいの創造』で著者の飯田氏は、このドーア氏の記述の内容を
以下のようにまとめて説明しています。

ドーア博士は、理性原則が有効でない例として
「妻・夫や恋人は、自分を裏切っていない」という信念をあげます。

もしも「十分な証拠がない」としてこの信念を拒否するならば、
二人の関係はおそらく長続きしません。
この種の問題では、十分な証拠を求めること自体が、
不必要な緊張、不快感、人間関係の破壊をもたらしてしまいます。

そこで、それを科学的基準によって証明するよりは、
たとえ証拠が不十分でも、信じておく方が得策だというのです。

この事例が示しているのは、人が何かを信じるべきかどうかを
決めるさいに、かならずしも、つねにその証拠を考える必要はなく、
「信じることがもたらす結果の有効性」を考慮した方が
望ましい場合もあるということです。

そしてドーア氏は、次のように結論づけます。

たとえ死後の生命の証拠が、科学的基準に照らし合わせて
決定的なものではなかったとしても、
その存在を自分の人生で「検証する」という目的で
信じることを選ぶならば、その姿勢は理性的なものである。

また、たとえ否定的な証拠や、自分で納得のいかない部分が
あったとしても、熟考した末の決心でその信念を支持することは、

「ある理論の妥当性を研究室で検証中であるにもかかわらず
その理論を支持している科学者」
が正当であるのと同じように、正当なことなのである。

一方、アリゾナ大学のロバート・カステンバウム教授は、臨床心理学者の立場から、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仮説の証明方法について、
「第一に念頭におくべきことは、きちんとした記録がひとつあれば十分だということである。本当は百も千も必要ではない」
と、その著書『死の世界を考える』(東京書籍)で強調しています。

例えば、五十人の被験者に「空中に浮かんでください」と指示したところ、
四十九人は失敗したが、
一人だけは地上一メートルのところに浮かんだとします。

この結果を見て、
「五十人中四十九人も失敗したのだから、
人間が空中に浮かぶことができるとはいえない」とか、
「一メートル浮いただけでは証拠として不十分だ。
やはり人間は空中に浮かぶことはできないに違いない」
などと結論づけようとするのが、現在の否定論者の論法だというのです。

本来ならば、逆に、
「成功したのは五十人中一人だし、わずか一メートル浮いたにすぎないが、
確かに人間が空中に浮いている。
少なくとも、人間は空中に浮くことができるのだ」
と結論付けるのが科学的解釈であり、

むしろ
「どうして空中に浮くことのできる人とできない人がいるのか」
「浮くことのできる条件は何か」
という命題にこそ、論点が移っていくべきだといいます。

その上でカステンバウム氏は、次のように指摘しています。

一部の反対派が、しっかりはしていても完全ではない証拠を
認めたがらないのは、
ただ「死後の生を認める」のがいやなのだということを物語っている。
証拠を認めるのをためらうのと、反証するのとでは、大違いである。

私たちがこれまでに見てきた、死後の生存を裏付ける証拠の大部分は、
死後の生存を否定するものは何もない。
ただ、一部の人が、証拠に限界や欠陥があるかもしれないと思うかぎり、
死後の生存を認めたがらないだけのことである。

もしも、これと同じ考え方で科学一般のデータがあつかわれたとしたら、
教科書は、今よりもずっと薄くなることだろう。

夢を「生理学的現象」のみに定義づけようとする科学者も

少し話は変わりますが、夢の研究でも、ここ数十年で脳波検査、
更に最近ではfMRIやSPECTといった精密な測定装置のおかげで、
睡眠や覚醒の様々な段階を数値化できるようになり、
例えば夢は多くの場合、睡眠中の脳波のある特定の段階
(REM睡眠と呼ばれるもの)で見ていることがわかりました。

これをもって一部の神経生理学者は
「睡眠中に脳は、記憶や認知能力などを維持・発達させるために
(ノルアドレナリン、セロトニンなどの)脳内物質を、
覚醒時とは全く異なるパターンで分泌しているが、
その影響でやたらと感情的かつ荒唐無稽なストーリーが出てくる。
つまり夢は脳の生理活動の随伴現象に過ぎず、意味深な心理的理由はない
と断言しています。

しかし夢分析は今でもなお、自分や他者を知ることに非常に役立つことを、
私は日々の臨床で実感していますし、
2019年のジュネーブ大学の研究では、悪夢を見る意味として
予め夢の中で恐怖心を体験しておくことで、現実の恐怖心に対しての
耐性をつけるという機能があるのではないか
という結果を発表しています。

さらには、夢が個人を超えて、他人同士で共有されることがある
ことを示す実験もあります。
実験心理学的にも厳密な方法論にのっとって行われたこれら実験については
『ドリーム・テレパシー』という本に記載されています。

苫米地氏も「スピリチュアル」も、
結局目指すものは同じでは?

また苫米地氏は、著書『なぜ、脳は神を創ったのか?』
「神・宗教から自由になる方法」の章の中で、
人はその気になれば、宗教と政治という、
人間社会を動かす二大勢力に支配されず
自由になることができると主張しています。

以下、引用します。

そこで、私たちがとりうる選択肢として、
政治からも宗教からも自由になるという道が
私たちの選択肢に上っています。

政治と宗教から自由になるとは、この世の煩悩とあの世の煩悩と、
その両方から自由になることです。

つまり、両方の煩悩から自由になることは、完全に自由になる、
というのと同じです。(中略)

現代の社会では、この世の興味はことごとく
金銭に還元することができます。
だからこそ、利益を上げるためには人を殺してもいいという
価値観が生まれます。

したがって、そうならないためには、
金銭に還元することのできるこの世の煩悩から離れ、
抽象度の高い世界に興味を持つようにするのです。

人生のゴールを、宗教の教義よりも抽象度が高く、
かつこの世の政治システムよりも抽象度が高いところに置くことで、
それは可能になるはずです。

そして完全に自由になるために二つの方法を示します。

一つ目は「否定から入る方法」で、世界のあらゆる宗教と政治制度を
検証し、その矛盾点を突くことで宗教や政治に傾倒する心理から
脱するというもの。

例えばキリスト教の重要な教義のひとつである「最後の審判」は、
墓から死者が蘇るとうプロセスを含むが、
火葬し散骨された遺体や戦場で木っ端微塵になった人の遺体が
どうやってゾンビのように起き上がるのか、
そんなのは科学的に不可能である。

そのような問題を抱えた教義をなぜ信じるのかと自問すれば、
どんなに身に染みついた宗教でも客観視できるはずである、と。

二つ目は「肯定から入る方法」です。

この場合は、政治も宗教も最初から検討の対象にはしません。
釈迦の教えにあるように、まさに自我も空であると肯定し
自分という煩悩からどんどん離れ、
抽象度の高い世界に視点を移していきます。

そうすると、社会に対する見方も、幸せは自分の幸せではなく、
地球人全員の幸せであり、人間だけでなく地球上のすべての生命の
幸せであり、という具合に変わっていきます。

そして、その範囲をさらに宇宙にまで広げられる抽象度の高さにまで、
視点を引き上げていけばいいわけです。

このような視点は、宗教の枠を超えるものです。

ほとんどの宗教は、人間のことしか対象にしていません。
動物のことは考えていませんし、もちろんロボットのことも
想定していません。

人工知能によって間もなくロボットがIQを持ち始めるときに、
この問題をどう扱うというのでしょうか。

宇宙の生命体が見つかったときにどうするかということも、
宗教は想定していません。

とすれば、人類だけでなく、動物も、宇宙人も、
全部幸せになればいいのだと、
最初から自分の抽象度を上げていきます。

それは、自分の煩悩からどんどん離れ、
自我の抽象度を上げていくということです。
それを人生のゴールとして設定するのです。

このようにすれば、わざわざ否定から入らなくても、
自我を肯定するだけで、
政治と宗教から自由になることができるはずです。

と述べていますが、
「人類だけでなく動植物も、無生物も、
地球ひいては宇宙全体の幸福を願う」というのは、
従来の宗教よりもむしろスピリチュアリズムで度々聞かれる
概念であるように思います。

1992年から2004年までシリーズ化され、
全国各地で自主上映された映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」
もそうですし、

後述するサネヤ・ロウマンらは1980年代に瞑想セミナーを
開き始めた比較的初期から、人間だけでなく「動物・植物・鉱物界を癒す」「一つのシステムとしての地球全体とつながる」という瞑想コース
提供していますし、

さらにここ10年ほどはいくつかの恒星世界にでかけたり、
直近では平行宇宙、つまり
現在自分が存在すると認識している宇宙と同時に存在している無数の宇宙、
パラレルワールドともいいますが、この並行宇宙を探検したり、
時間的空間的に別のところに存在する意識体と交流する
という瞑想コースも提供し続けています。

そうした存在たちのことに思いを巡らし、更に実感することで、
ともすると目の前の小さなことにこだわり
振り回されてしまいがちな日常的な意識を中断し、
より他者のためにもなる言動ができるようになりやすいのです。

そして瞑想状態では、ごく普通の人でも、とてもリアルに
普段の自分個人の観点を超えた、より大きな視点からの、はっとするような
思考やメッセージが湧き出てくることは決して珍しいことではありません

「自分だけ」「自分の家族だけ」「自分の国だけ」良ければそれでいい、
というのはやはり利己的であり、これでは心は常に
「他者に奪われないか、今の幸福が失われないか」
と汲々とし、真の安らぎが得られない、というのは
たいていの人は経験的にある程度わかっているはずです。

苫米地氏は「宗教」「オカルト」「根拠のないものを信じること」を
徹底的に忌避し、
「真の心の安らぎを得るためには、釈迦が主張した空
(すなわち、自我を含むこの世全ては幻だ、ということ)」を
思考や瞑想を通して体感することが真の幸福への道筋だと主張しますが、
私から見れば苫米地氏もスピリチュアリズム(ただし、良質なもの)も
同じ結論を示していると感じます。

スピリチュアル嫌いの科学者の「気功好き」の謎

なお、氏は気功は信じているようで、『なぜ、脳は神を作ったのか?』
出版時点(2010年)のプロフィールによると
全日本気功師会副校長兼名誉校長の肩書きも持ち、
同年『すごい氣が出るDVDブック』を
同会会長の張永祥氏と共著で出しています。

「気功」「レイキ(霊気)」「エネルギーヒーリング」の類は、
スピリチュアル系代替療法として最も一般的であり、
そのぶん科学者たちからの反論・反発が続いている分野ですが、
苫米地氏はこちらの「怪しい」とされる施術は問題視しないのでしょうか。

しかもその本の中で「気は時間と空間を越える」、
つまり目の前にいない人へ癒しのエネルギーを送る「遠隔気功」や、
過去や未来の対象(自分、他者、環境など)に対してエネルギーを
送ったり受け取ったりもできると積極的に主張しており、
一般的な意味で怪しさ全開なのです。

氏は『スピリチュアリズム』の中で

私を江原氏と対談させてくれれば、
彼の後ろに憑いている守護霊、霊媒と全部話をして、
その場で取り去ってあげる、それで彼は自分が見ていたものが
幻覚だったと気づくかもしれない。公開でもかまわない。
あなたの幻覚を消してあげる。

と述べていますが、それよりもまず、氏が気功をどのように「証明」するのか、例えば前回までの動画で紹介したkikulog から
著者である物理学者に正式に議論を申し込み、その全経過をネット上
あるいは著書の中で公開して欲しいものです(You Tube 等でライブ動画、つまり編集なしの中継放映だとなお良いですね)。

そうすれば私も、苫米地氏の主張を
もう少し納得できるようになるのではと思います。

・・・

以上、苫米地氏が著書でスピリチュアルを批判している、
3大項目について述べてきました。

しかし実際には、まだまだ見過ごせない、誤解項目がいくつもあり、
合計7個になりました。
ただ、長くなるので4個目以降は、また次回にしたいと思います。

後半の項目では前世の矛盾とか、占いは全てインチキだという主張に
対して、真実と嘘の見分け方などについて、述べていきますね。

<関連動画>
脳科学者のスピリチュアルへの誤解 https://youtu.be/Xx48q_4hitM 
二重スリット実験とは? https://youtu.be/4Hibuw9PUEM


<参考図書>

『プルーフ・オブ・ヘヴン―― 脳神経外科医が見た死後の世界』https://amzn.to/3kFcJa5 
『生きがいの創造』https://amzn.to/2zzJn9J 
『死ぬときに後悔すること25』https://amzn.to/2XcvuHK 
『がん哲学外来の話』https://amzn.to/33apx1D 
『ドリーム・テレパシー』https://amzn.to/3jSpm17 

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ホリスティック(※)精神科医として、できるだけ薬を使わずメンタル改善する方法を様々に模索し、相談者にご提供してきました。このブログではその中でも特にアート(特に絵画療法)のエッセンスを通じてあなたが自己ヒーリングできるように工夫した情報を発信していきます。 ーーーーー ※ホリスティック:「統合的、総合的な」という意味。ここでは薬物療法オンリーの従来型精神医学の限界を突破するために深層心理学、催眠療法(ヒプノセラピー)その他のスピリチュアル、アロマセラピー、そして精神症状を改善するエビデンスのある分子整合(オーソモレキュラー)栄養療法を通じてメンタル不調を改善することを指します。