スピリチュアルがメンタルに「効く」理由

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スピリチュアルな観点は実際にメンタル改善に有効

スピリチュアルを知り、それを受け入れるとなぜ精神状態が安定するのか?ですが、それは前述したように

・なぜ生まれてきたのか?人生の目的は?
・なぜ人生にはこんなに試練があるのか?
・死んだらどうなるのか?

に答えてくれているからです。

もちろん、これらの疑問への答えには何も物的証拠はありません。
たとえ臨死体験をして蘇ってきた人が、体験談を話しても

「臨死状態で、脳が幻覚を見たのだろう」

「実験で、脳の特定の場所を電気刺激すると、そっくりの体験をした、
という論文がある。
だから単なる幻覚体験に過ぎないのだ」

「あくまで臨死体験であり、
本当に死んだ人の話は聞けないのだから意味がない」

などと、「自分は科学的」と思っている人は主張します。

しかしあくまでも状況証拠や証言に過ぎないとしても、以下のような書籍を読むことで、考えが変わることも少なくありません。

これらを読んで、内容に納得できると、上記の3つの疑問が解消するだけでなく

・日々の孤独感が減る
・失敗や災難だとこれまで思ってきたことが全て意味があり、
 自分は順調に人生を歩んでいることがわかる
・その結果、自己肯定感が上がる
・他人の存在の意味がわかるので、たとえ気の合わない人たちにも寛容になり、その結果、対人関係がよくなる
・自分の死、身近な人の死に対しても恐怖感がなくなる

といった、精神的に大きなメリットが受けられます。

スピリチュアルな思想にも複数の考え方があり、細かい点では違いもあるものの、共通しているテーマは以下の内容です。

・人の魂は死なず、今生の数十年の肉体の寿命が尽きても魂は生き続ける
・今生から離脱した後しばらくはいわゆる「あの世」で休んだ後、
 再度地球に、別の人格として転生してくる
・何度も輪廻転生するのは、人生経験を積むことで魂を成長・成熟させるため
・物事には幸不幸はなく、逸話「塞翁が馬」のようなものである
・善悪といった二項対立はない

こうしたことが理解できると

「なぜ、先天的障害者として生まれてくる人がいるのか?」
「なぜ、戦争や貧困がなくならないのか?」

といったこともわかりますし、

「何の罪もない、あるいはがんばって善行を積んできた人に大きな不幸がふりかかり、理不尽な死に方をするなんて、神や仏などいないんだ」

という、よくある誤解もなくなります。

こうして、生きることにも死ぬことにも過剰に感情的に反応せずにすむようになるので、毎日が非常に楽で、平穏な気持ちで過ごせるようになるのです。

スピリチュアルな死生観も「進化」していく

そして、スピリチュアルへの理解も、次第に進化していくというか、
より応用的になっていく場合もあります(その辺りも個人の好みで決めてOK )。

例えば、入門者として理解しやすいのは
「特定の魂が何度も輪廻転生し、魂を成長させていく」
というものですが、理解が進んでいくというか、意識が広がっていくと、
次は以下のような考え方にも興味をもち、受け入れられるようになります。

これは近年、解明が進みつつある量子力学(量子物理学)からの応用的観点です。

・「時間」は存在せず、過去も未来も含めて全てが「今」に集約している

・自分が今存在している宇宙の他に、無数の並行宇宙(パラレルワールド)があり、意識の持ちようで人は誰でも瞬間瞬間にパラレルワールを選び、そこでの人生を体験している

・したがって「未来は決まっている」ともいえるし「未来は自由に選べる」ともいうことができ、両者は矛盾しない

・脳科学での研究で、自分が意思を感じるより先に脳神経細胞における「準備電位」が発動してしていることが判明。

ということは個人に「自由意思」はないといえるかもしれず、代わりにより高次な「自分」あるいは「意識体」が今の自分の肉体も精神も動かしているのかもしれない(ちょうどロールプレイングゲームで、プレイヤーがゲームの中のキャラクターを動かしているように)。

・意識は物質に影響を及ぼす

こうなると、「自分の自由意思」でしゃかりきになって歯をくいしばりながら人生を歩むことがいかに効率が悪いか、がわかるようになり、より自然体で生きられるようになります。

しかしそれで別に貧乏になるとか、ただ現状維持の、ぱっとしない人生になるということではありません。
もしそうなってしまうとしたら、本人が普段から自分や自分の人生について
「ぱっとしない」ものだ、とみなしているからでしょう。
まさに「普段自分が考え、感じているとおりになる」のです。

いわゆる「引き寄せの法則」はまだ、自分の意志で「あれがほしい、こうなり
たい」と強く念じるべし、というのがあるのですが、
本当の意味で自然(運命、宇宙e.t.c.と呼んでも良いですが)に任せて安心していると、自分が望む、あるいはそれ以上のものが自分のもとに勝手にやってくる、といった感覚になるでしょう。

ではスピ嫌いの人はどう考えれば死の不安を減らせるか

いくつかの観点がありえます。

(1)ロゴセラピー

1つ目は、精神科医ヴィクトール・フランクルによる「ロゴセラピー」です。
ユダヤ人である彼はナチスの強制収容所に入れられ、過酷な労働・生活環境はもちろん、そこで日々感じる死の恐怖と、将来への絶望感を体験しました。

ほとんどの人が死んでいくその状況の中で、どういうふうに考えをもっていくことで生還したかが、彼の代表作『夜と霧』で詳しく述べられ、世界的ベストセラーであり続けています。

彼が生み出した「ロゴセラピー」は、人生の与えられた状況に自分で意味を見出し、「生きる意志」を生み出して、それに沿って生きる、というものです。

実はナチスにとらえられる以前の時点でロゴセラピーの理論はほぼ完成していたのですが、
はからずも強制収容所体験がその理論の正当性を検証することとなりました。

フランクル自身が強制収容所での過酷な生活を耐え忍び生きるための希望と意志を生み指した意味・目標は

①生き別れた妻と再会する。
②自分のライフワークとして書き上げた論文がナチスにより取り上げられ破棄されてしまったが、これを再度書き上げ、世に発表する。

でした。

残念ながら①は、妻が他界していたのでかなわなかったのですが、
②については生還後完成して発表しています。

その後もこうした体験およびロゴセラピーをテーマに、92歳で没するまで、
世界で講演活動と執筆活動を続けました。

なお、強制収容所から出て2年後には再婚し、子供も授かり、50年にわたり仲睦まじい結婚生活を送りました。
そして2度めの妻はフランクルの学問的活動の協力者でもありました。

このように極限的な体験を経て生き残った人でしたが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄だったそうです。


<ヴィクトール・フランクルの代表作>

(2)前田隆司流の死生観

前田氏は慶應義塾大学大学院にてシステムデザイン・マネジメント研究科教授などいくつかの肩書を持つ人で、AIの研究と、教育やビジネスにイノベーションを起こすためのシステム・マネジメントを主題にして活動している人です。
イノベーション教育、社会システムデザイン、幸福学、システムデザイン・マネジメント学などの研究に従事しているとのことです。

彼は小学生時、「死ぬことが怖くてしょうがなかった」そうで、そのことから
脳科学や意識、AI について「システム」という観点から考えるようになり、
その結果として「魂」や「個人の自由意思」といったものはない、という結論になりました。

彼がこのテーマについて書いた著書『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』では、死を恐れなくなるための視点・考え方は以下である、と述べています(氏のブログより)。

(1)心は幻想と理解すること、
(2)人生は死刑だと理解すること、
(3)自分の小ささをかみしめること、
(4)主観時間の幻想性を理解すること、
(5)自己は単なるメディアだと理解すること、
(6)幸福のメカニズムを理解すること、
(7)悟りとリラクゼーションのメカニズムを理解すること。

(中略)
あらゆる他の事柄と一緒だ。物事には本質的な意味はない。何もない。答えはない。あるとしたら単なる動物という機械論。あるいは、ニヒリズム。

しかしそれは悲観ではない。悲観しているうちはニヒリズムではない。楽観も悲観も超越したところにニヒリズムはある。

同様に、生も死もない。これも悲観ではない。生も死も超越したところに、答えがある。答えは最初からあったといってもいいし、どこにもないといってもいい。人はそうわかったうえで生きるべきなのではないか。いや、そうするしかないのではないか。人生とは、そういうことなのではないか。


そしてスピリチュアルを心のよりどころにしている人たちに対しては、以下の考えを述べています。

しかし、論理的根拠もなく確実性の低いことを信じるのもなんだか痛々しいので、正してあげたい気もする。そういう怪しげなものを信じるエネルギーを別のところに向ければもっと健全で有意義な世界が構築できるかもしれない、という気もする。知らないのなら解説してあげたい、というおせっかい心も湧き上がる。だから、本書『人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』を書いた。

ところが前述したような、量子物理学やパラレルワールド、次元についての観点を受け入れられるようになると、もはや「スピリチュアル」と「科学」は矛盾も対立もしないのです。

例えば

・人生には本質的な「意味」はない
・人はそもそも「生まれ」てもいないし、したがって「死ぬ」こともない
・本質的には「自分」はない。したがって個人の自由意思も「ない」。
・過去も未来もない。時間の「流れ」もない。
 あるのは「今、ここ」だけ

というのは、近年のスピリチュアリスト、
特に「非二元論(ノンデュアリティ)」派でしばしば出てくる主張です。

前述のように最近の脳科学研究により
本人がある行動をしようと自覚する前に、脳細胞では準備電位が発動している
ことをもって、スピリチュアルな観点を受け入れている人は
「個の外側になるより高次な意識体が個を動かしている」と考えます。

一方、前野氏は死後の世界を否定しているので、
あくまでも個の生理学的反応として解釈しています。

すなわち「本当は先に脳細胞が活動しているのに、脳の持ち主が『自分の意思でそうしたのだ』とあとづけで解釈した」、と考え、これを「受動意識仮説」と名づけ、「だから個人の自由意思などない」と考えました。

まあ、どちらの考え方も大同小異だなあ、と私は感じます。
死後の世界があるかどうかは、今生に生きている時点では証明しようがないので、そこは各自がなじみやすい方の考え方を採用すれば良いことです。

このことについては、本章(スピリチュアルについての章)の最後でさらにご説明しましょう。


<死や人生の意味、意識、幸福についての前田氏の代表作>

(4)鈴木 祐 流の視点

年5000本以上の論文を読み、数々のベストセラー本を出版してきたサイエンスライターの著書『無(最高の状態)』 では
ことさら死についてフォーカスしているわけではありませんが、

「自己」とは(手足や耳目のような)特定の実用的機能を寄せ集めたものに過ぎないこと
→したがって、絶対的で特別な存在ではない

・「自己」が体験し「現実」だと思っていることは脳が作り出した物語(バーチャルリアリティ)に過ぎないこと

「今」に集中できず「物語」に入り込んでしまうことが、
人生の苦しみを生んでいること

・したがって脳がそのデフォルト機能として、瞬時に「物語」に飛び込み、同一化してしまうことに気づき、制御することが、幸福感につながること

・制御には、イメージワークや呼吸法などの瞑想法が有効であること

などをわかりやすく解説しています。

「自己という特別な存在はない」「あるがままの現実に降伏せよ」「自分や世界の本質は『無』である」という、仏教やスピリチュアル(特に非二元論)で伝えているテーマを伝えつつも、あくまでも無神論者なので、こうした現象は進化した脳の機能のせいである、という視点です。

なので「死後」とか「人智を超える存在」などは無視したところで心の安寧を得たい人には、とても納得でき、かつわかりやすい本でしょう。

(3)その他2つの考え方(ある程度精神状態が安定している人用)

こちらは現在、ある程度精神状態が安定している人が、
「死というものは確かに未知の領域だが、
それにわずらわされずに日々を送るために『使える』考え方を知りたい」
という場合に役立つと思われるものです。
2つあります。

①「あるかどうかもわからない死後のことを考えるより、
 自分はどのように人生を全うしたいかを意識する。
 つまり「自分はどのように死にたいのか」から逆算して考える。

 例えば
・自分の葬儀の場で、自分を知る人たちにどういわれたいか
・人生最期の日、『ああ、自分は▲▲をできて、充実した人生だった、
 悔いはない』の▲▲とは何か

をイメージし、考え、そこに近づくように日々意識しながら生きる」

というものです。

この考え方が役立つのは、人はともすれば目先の短期的快楽をつい優先してしまい、自分の人生にとって本当に大切なことを後回しにしがち。
その結果いよいよ死期が迫ってきてから
「しまった。もっと~しておけばよかった」
という後悔の中で亡くなっていく人が多いからです。

また、お金儲けや立身出世を重視するあまり、
家族や友人との人間関係を傷つけたり、過労や睡眠不足、不摂生がたたり
致命的な状態に陥って、初めて自分の人生の歩み方が間違っていたことに気づく人たちも跡を絶ちません。

例えば、死にゆく人たちを大勢看取った著者による本『死ぬ瞬間の5つの後悔』 では、人生の典型的な後悔を5つにまとめています。

・自分に正直な人生を生きればよかった
・働きすぎなければよかった
・思い切って自分の気持を伝えればよかった
・友人と連絡を取り続ければよかった
・幸せをあきらめなければよかった

多くの人が陥ってしまうこれらの人生の罠にはまらないよう、
先回りして学んでおくのは、非常に大切なことです。

②自分のためにではなく、他者のために生きる。

とかく「生きがいがない、何のために生きているのかわからない、むなしい」と言っている人は前提として「自分が幸せになるため」として人生の目的や意味を求めているので、むなしくなります。

特に自己肯定感が低く、人生の意味となるような才能や達成感がないと普段から思っている人ならなおさらです。

幸せとは「幸せと感じられるかどうか、という主観」に過ぎないので
本当は何か能力や持っているものなどの外的条件とは無関係なのですが、
それは大半の人にとってはなかなか思いつけない真実です(多くの人が悩み試行錯誤していく中で、ようやくこの真実にたどりつきます。
童話『青い鳥』が象徴的にそれを表現しています)。

しかし自分は大したことがないと思っている人でも、
自分が愛する人のためならがんばれる、という人は一定割合います。

例えばうつ病になり自殺を真剣に考えたが、妻子のことを思って踏みとどまった、という話は、割とよく聞くでしょう。
あるいは最愛のペットが、自分が急にいなくなったら生きていけないから・・・と思いとどまることも。

また、定期的に参加していたボランティア活動で、「ありがとう」といわれて「自分も誰かの役に立っている」と思えることで、苦しい時期をなんとか乗り越えられた人もいます。

そして人や動物等に直接関係していないように見えても、自分が世に出したかった事業やサービス等を完成させることで社会の役に立てると思えたなら、それも苦しい日々を耐えるモチベーションになるでしょう。

このように、自分が生きている意味はわからなくても、誰かを守ったり、役に立つことには意味を感じやすいので、こうした心理を活用して人生を生きていく、というのも有効な方法です。

ただ、これらの考え方の前提に「ある程度精神状態が安定している人」と条件をつけているのには、理由があります。

重度のうつ病などで不安焦燥が強く、将来に対して悲観的・絶望的で、毎日のように死にたいと思いつめている人にとっては、このような考え方は
「そんなこと知るか、どうでもいい。ともかく今のこの苦しみから逃れたい」
としか思えないでしょう。

一例として、未婚の人が自殺を考えた時

「自分が死ねば、親は唯一、確かに悲しむだろう。
でも親は私よりも兄のほうをいつも愛して大事にしてきたのだから、
私がいなくなってもさほど困らないだろう」
と思い込み、自殺を実行してしまうことがあります。

また、そこまでではないレベルだが
落ち込み、意欲低下、思考能力低下を中程度きたしている時期の人にとっては
「理想的な自分像」などとはギャップがあり過ぎて現実味が感じられず、かえって希望を感じづらくなる可能性があります。

なので中程度以上の精神症状がある時期の人にとっては、
以下の方針をお勧めします。

・今日一日のことだけを考える
・今やっていることに全力で集中する
・今に集中する訓練をすることで、
 過去や未来のことを堂々巡りで考え続けてしまう、
 という悪い心の習慣を減らしていく(マインドフルネス)。

(4)誰にも本来的に備わっている「マインドフルネス」の力を活用する

「マインドフルネス」については既に
マインドフルネスは最も強力なメンタル不調改善法の1つ
で説明していますが、ここでも少しだけ解説を加えておきましょう。

人間の脳、そして脳が作り出す意識の性質として、
心の中で常にある思考(=「心のおしゃべり」)を黙らせ、静かな時間をしばらく過ごすと、人は次第に、そして自然に、以下のような感覚を体験するようになります。

「自分はより大きな何かの一部であり、その存在(世界、意識体e.t.c.)こそが自分の本質である」

「個人として体験している『自分(自我)』は、本来の自分のごく一部に過ぎない」

「本来の自分は完全無欠である」
「したがって、何も心配する必要はない。全て順調であり、大丈夫である」

こうした感覚(気づき)は特定の宗教を信じていなくても、
あるいは納得・共感できる哲学・思想に出会えてなくても、
同じように起こります。

マインドフルネスによる意識の変容を体験することで、
誰でも「理由のない安心感」が出てくるようになります。

もちろん、この意識状態に入り、継続できるようになるには、
ある程度の心の訓練は必要です。
ちょうど筋肉をつけるには毎日の筋トレを、
英語を身につけるには毎日英語の勉強をする必要があるのと同じです。

しかしその時間と労力の投資は、
何倍にもなってあなたの一生の財産となるでしょう。
何しろ、人生の質が格段に上がり、たとえ試練のなかにあっても
以前のように苦しんだり、右往左往せずに済むわけですから。

『うつのためのマインドフルネス実践』という、すばらしい本があります。
認知療法(CT)にマインドフルネスを併せることで、うつ病の再発リスクを半減できることが研究でわかったのですが、
この「マインドフルネス認知療法(MBCT)」を詳しく解説したのが『うつのためのマインドフルネス実践』です。

この中に、マインドフルネスの手法の応用形として「非選択の気づき」という瞑想法が出てきます。

この時に起こる意識の変容体験を描写した箇所がとても参考になると思いますので、引用します(邦訳版ではなく、原著から浜野の訳で書きます)。
ご関心のある方は、書籍を手にとってみてください。

ーーーーーーーーーーーーー(以下引用)ーーーーーーーーーーーーーーーー

「非選択的気づき」の瞑想を続けているうちに、
以下の意識状態を体験するでしょう。

・物体は気づきという空間に浮かぶ天体のようなもので、我々はそうした物体全てをただ抱えて存在している空間である。
・気づきは(空間と同じように)境界や限界がない。
・気づきは何の観念(概念)も持たない。
・気づきは痛みを感じないが、痛みに対して深い共感をもって見ている。
 このため、気づきを熟知すると、人生の最も困難で苦痛な体験も受け止めやすくなる。
・さらには、以下の奇妙な、しかし深遠な発見をするかもしれない:
「気づきとはそれ自体がすでに自由で、本質的に完全で、深遠な叡智なのだ」と。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<参考図書>

実用的スピリチュアルを習得したいなら

スピリチュアルには興味あるのでもう少し学んでみたいが

・変に偏ったものと接触して人生を誤らないようにしたい
・自分が望むものを引き寄せたり、不安のない人生を送れる指針がほしい

という人には、以下のものがお勧めです。

(1)飯田史彦『生きがいの創造』をはじめとする『生きがい』シリーズ

以前にも言及したものです。
著者は福島大学の経営学教授現役時代から多くの著作を発表。
生まれる前の記憶を持つ子どもたちの証言や、自身の臨死体験から、
人の魂は死なないし、魂を成長させる経験を積むために何度も輪廻転生すると

いう死生観を体系的にまとめています。

そして
「死後の世界や輪廻転生があるかどうかは今生では証明できないが、
そう仮定していたほうが、はるかに不安なく、充実した人生を送ることができる」
つまり幸福感を得る実用的手段として輪廻転生をいったんは受け入れた方が「お得」なのでは?と、著書のなかで論理的に解説してくれています。

代表作↓

(2)サネヤ・ロウマンらの著書&音声教材

こちらは、

基本的な瞑想法
・普段から瞑想に近づくような意識状態を持つ練習をすることによって種々の引き寄せ(ライフワークやお金、健康、ソウルメイトe.t.c.)、願望実現をする

といったことから

・自分のガイドとつながるためのチャネリング法を独習するやり方
・自分の波動を上げて高次元の宇宙とつながり、普段我々が認識している「時間の流れ」や「空間」とは別のものがあること を体験する

という、かなり高度な瞑想コースまで多数用意されています。

サイト(英語) Orin & DaBen  

入門者はまず、邦訳されている数冊の著書を読んでみることをお勧めします。

音声コースの一部は「キャッスル・イン・ザ・スカイ」による邦訳ものが売られていたり、オンラインセミナーが年に何回か開催されているので、そうしたものに参加してみるのも良いでしょう。

ただしキャッスル・イン・ザ・スカイではサネヤたちのものだけでなく、
七福神など別の考え方を取り入れたセミナーも多数あるので、
お好みによると思います。

個人的には、英語のヒアリングができる方は https://www.orindaben.com/ で英語版音声教材をダウンロードして学習することをお勧めします。
なにしろ、内容が入門者レベルから高度なレベルまで、非常に豊富ですので。

<参考図書>

「科学」と「スピリチュアル」は実は対立していない

この章の前半でも述べたように、スピリチュアルも入門者レベルから次第に進んでいくと、個別の魂よりも人類全体、人類を含むこの宇宙、さらには別の多数の宇宙・・・というように、関心がより広い範囲に向かっていくようになります。

そのプロセスでは結果として、「個」「自分」の重要性が減り、
「自分は全体に含まれる」、「そもそも自分は全体と同じである」という認識のほうが優位になっていきます。

この状態で感じる「個としての自分はない」「自由意思もない」といった認識は、字面だけでみると「科学的で無神論者」「唯物論者」を自認する人たちのいっていることと同じように見えるかもしれませんが、その根底にある「感じ方」はおそらく全く違います。

「おそらく」と書いたのは、私自身は無神論者(唯物論者)ではないので、
唯物論者の気持ちは、よくわからないからです。

例えば彼らは人生や、幸福や、死について、このように言います。

「人が生まれて来たのは偶然で、世界や人生に特に意味はなく、
死んだら無に帰するだけ。
人生の目的や意味など、生きている数十年を生きやすくするために
後づけで自分で作り上げたものだし、それで良いのだ」。

この考え方で虚無的にならずに済むのは、かなり心が強いとか、

精神状態がある程度安定している人なのではないか?と私などは思います。

つまりこの考え方を持つことで
虚しくなり、努力の意味を感じづらくなったり、
「結局最後は無に帰すのだから、面倒な努力なんかしなくても良いのではないか?」
「死んだら何もなくなるんだから、辛い人生を終わらせたくなったら自殺してもいいよね?」
と考えてしまいがちなのではないか、と思うのです。

もっとも、ガチガチの唯物論者たちがスピリチュアルな考え方を徹底的に否定し、批判した書籍などを読むと、実は上述とかなり共通の批判をしています。
たとえば

・宗教やスピリチュアルに頼ると「あの世が主でこの世は従。
だからこの世は適当に暮らして、あの世に戻ったらまた楽しく生きれば良い」
と考えるのではないか

・楽なあの世に戻り、何度も生まれ変わるんだから、辛い今生はさっさと脱出して良いだろうとばかり、自殺しやすくなるのではないか

・人生の目的が魂の修行と成長なら、どうしようもない低レベルの魂は殺してあげたほうが、その魂はそのぶん早く輪廻転生&成長できる、といった、
オウム真理教のような危険思想につながるのではないか

といったものです。
これらについては

「ちゃんとしたスピリチュアリストたちの考え方をわかってないな~。
あ、あなたの言っているその批判、●●さんの▲▲という著書に、
もう回答が書いてありますよ。読んでないでしょう?」

といいたくなるような、無知と誤解からくる思い込みも多いのです。

しかしながらもしかしたら私自身も、唯物論者たちの思考や感情の流れを
誤解している部分もあるかもしれません。
きっと彼らなりの幸福を感じているのでしょうし、
私が思うほど唯物論者たちは虚しくならないのでしょうね。

まあ、どの思想を選ぼうと、各人が幸せを感じられればOK なので、
読者のみなさんも、いろいろな考え方に触れた上で、
ご自身に最もしっくりくる死生観を選べば良いと思います。

なんなら、まだ誰も提唱していないような、
別の視点を見つけても良いですしね。
その辺りは、全く自由なので、楽しんで探索しましょう。
それこそ、一生をかけてできる課題(ゲーム)だともいえます。


話を冒頭に戻しますと、スピリチュアルも認識が進んでいくと
次第に「個」とか「自分」の重要性というか、特別感が相対的に減少しますが、それでいて唯物論者の世界観のような虚無感はありません。

なぜなら「個」という小さな器から意識が広がり、広大な宇宙(世界)そのものと、境界線なくつながった感じ、広がった感じ、完全でOKな感じを体感できるようになるからです。

その状態では、個別の魂や輪廻転生などもうどうでも良い、
些末な要素になります。
「私」などというものはない。
だから「私の苦しみ」といったものもない。

・・・こうした立場を「非二元(ノンデュアリティ)」といいます。

この辺りについては、以下の人たちによるYou Tube 動画や著作が非常に参考になりますのでお勧めです。

<参考動画>
マッキーのパラレルシフト(牧野内大史)
雲 黒斎のうんちャンネル 
(両者とも、特に「次元」の解説動画がお勧めです。
「高次元」「鏡」「フラットランド」で検索をすると出てきます。)

スピリチュアルNori  
 特に「宇宙の全てのモノは波動でできている」
 がお勧めです。


<参考図書>

この理論を使えば「あの世」や「霊的世界」まで適用可能、
つまり「物理法則としての『神』」を理解することができる、との解説書です。

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ホリスティック(※)精神科医として、できるだけ薬を使わずメンタル改善する方法を様々に模索し、相談者にご提供してきました。このブログではその中でも特にアート(特に絵画療法)のエッセンスを通じてあなたが自己ヒーリングできるように工夫した情報を発信していきます。 ーーーーー ※ホリスティック:「統合的、総合的な」という意味。ここでは薬物療法オンリーの従来型精神医学の限界を突破するために深層心理学、催眠療法(ヒプノセラピー)その他のスピリチュアル、アロマセラピー、そして精神症状を改善するエビデンスのある分子整合(オーソモレキュラー)栄養療法を通じてメンタル不調を改善することを指します。